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2019.06.09

元祖スーパー四駆、アウディ・スポーツクアトロで爆走!?

アウディといえばクアトロの名で知られる4輪駆動というイメージの人も多いだろう。そのイメージを決定づけたのがWRCで活躍したグループBカー、スポーツクアトロだ。そのさらに上をいくスーパースポーツクアトロに試乗したときの思い出とは?

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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第98回

世界に1台のスペシャルなスポーツクアトロ        

プレミアムセグメントで圧倒的存在感を示す「ジャーマン・プレミアム・スリー」、、その一角をアウディは占める。

プレミアム・スリーの筆頭格はむろんメルセデス・ベンツ。そして、BMW、アウディが続くが、アウディのプレミアム歴はまだ浅い。

地味で実用的なイメージしかなかったアウディが、特別な視線を受け始めたのは1980年辺りから。オンロード4WDの「クアトロ」を世に送り出したのがきっかけだ。

デビュー後間もなく、ステアリングを握る機会を得たが、ハイウェイでの高速スタビリティ、ワインディング路でのアベレージスピード、共に衝撃的なものだった。
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僕はすぐ、80クアトロを注文した。そして、200クアトロ、80アバント・クアトロ、TTクアトロ、、しばらくの間、僕のガレージにはクアトロが棲み続けた。

クアトロがモータースポーツ領域でも高いポテンシャルをもつことを、アウディは証明しようとした。そして、そのステージとして選ばれたのがWRC(世界ラリー選手権)。

1981年からの参戦だったが、初年度から3勝を挙げ、強さを見せつけた。82年にはメイクスのタイトルを、83年にはドライバーズタイトルを獲得、、そして84には、WRCを圧勝するため、グループBの「スポーツ・クアトロ」が投入された。

ホイールベースが320mm短いため、ショートクアトロとも呼ばれたが、お世辞にもスタイリッシュとは言えない。でも、存在感は圧倒的だったし、「すごみ!」があった。
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そんな、スポーツ・クアトロ、それも超スペシャルなモデルに試乗する機会があった。84年の初夏頃だっただろうか。

アウディからの連絡は「あなたひとりだけのイベントです。ミュンヘン空港でお待ちしています」といったものだった。

試乗するモデル名もいわなかったが、僕はすぐ「スポーツ・クアトロだな」と思った。そう思う強い理由があったからだ。

このお誘いの少し前に、インゴルシュタットのアウディ開発本部で、F・ピエヒと顔を合わせる機会があり、話をする機会があった。

それは、WRCアウディ・チームのエース・ドライバー、ワルター・ロールのサイドシートで、スポーツ・クアトロの凄みを味わった直後でもあった。

僕はたぶん興奮して、スポーツ・クアトロの走りと、ワルター・ロールのドライビングの感想を話したのだと思う。もちろん、通訳を挟んでの話だが、僕の興奮と感激は十分伝わったはずだ。

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ピエヒは、多くの人たちが、「気むずかしくて、怖くて、話ししづらい」という。が、僕はそんな感覚を抱いたことは1度もない。クルマやボートやスピード等々の楽しい話しならいつでもニコニコ顔だ。

興奮した僕の話しを嬉しそうに聴いた後、ピエヒの口から出たのは、「近い内にぜひ乗ってもらいたいクルマがある。楽しみにしていてほしい」との言葉だった。

具体的なクルマの名前は出てこなかったが、話の流れから、僕は直感的にスポーツ・クアトロのスペシャル版だろうと感じたのだ。

ミュンヘン空港にひとりで出迎えてくれたのは、技術部門の方。顔見知りだったが、恐縮してしまうような偉い方だった。でも、発表会や試乗会でお会いする時とはまるで違う。優しく柔和な表情で出迎えてくれた。
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クルマは予想通りスポーツ・クアトロだった。
艶やかな黒に塗り上げられていたが、存在感はハンパではない。凄みある存在感とでもいうのがいちばん当たっていただろう。

初めからステアリングが渡され、いきなりアウトバーンに乗り、南に向かった。ミュンヘンから南に延びるアウトバーンは空いていて飛ばしやすい。

クルマの説明はほとんどされなかったが、「パワーは400psを超えています」「足もブレーキも強化されています」とだけは話してくれた。

グループBホモロゲーションモデルの出力が300psだったので、それより100psも高いということ。むろん、速かった! 

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でも、隣に偉い人(以後は彼と呼ばせて頂く)が乗っているので、僕は遠慮して200k m/h 程度で流していた。すると、「岡崎さん、アウトバーンが速度制限のないことはご存じですよね?」と声がかかった。

言わんとしていることはすぐわかった。「もっと飛ばして!」ということだ。

僕はすぐアクセルを深く踏み込んだ。速度計の針はあっという間に250k m/h を超え、270k m/h に達した。減速比を高めればさらに速度は上がるという感触だった。スタビリティにも不安は感じなかった。

「すごく速いし、スタビリティもいい!」というと、彼は満足そうに笑顔で頷いた。

次なるタスクは「超高速域からのブレーキング」。僕は270、250、200k m/h からフルブレーキングを試したが、いずれも高いスタビリティを保ったまま、強烈な減速を示した。
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僕は一切手加減することなく、文字通りのフルブレーキングを試したのだが、、「強力ですね! 素晴らしい!」と言うと、また満足そうに頷いた。

こうしたトライをあれこれ繰り返しながらアウトバーンを走ったのだが、彼は常にリラックスしていた。身体を強ばらせるようなことは1度としてなかった。「ピエヒのチームはこんな人たちで固められているんだ!」と、嬉しくなった。

最後のタスクは、見通しのいいコーナーでのコーナリング。3速全開くらいのコーナーだったが、ショートホイールベースのハイパワー4WDを全開で走らせるのにはビビった。

ここは、僕ひとりで走ることになったが、彼の目の前で中途ハンパな走りはできない。意を決した。

徐々に速度を上げてゆき、4回め辺りでほぼ全開。その時はまだグリップ感に不安はなかった。そして5回目。さらに踏んだのだが、突然ステアリングと路面のコンタクト感が希薄になり、4輪がほぼ同時に滑り出した。恐怖が背筋を走った。そこでトライは終えた。

クルマを降り、彼に「あれ以上やるとどうなるんですか?」と聞いたら、彼は黙って胸の前で十字を切る仕草をした。ニコニコ顔で。

僕は敢えて聞かなかったが、この日のあれこれがピエヒに報告されるのはわかっていた。
彼の笑顔と満足したような様子から想像すると、ピエヒにはいい報告が届いたはずだ。

別れ際に「ピエヒさんによろしくお伝え下さい」というと、彼は「もちろんです。ピエヒも喜びますよ!」と返してくれた。

ちなみに、、これは後で知ったことだが、試乗したのはどうやらピエヒ個人のクルマだったようだ。思い出の価値はさらに倍化した。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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